日本社会と個人志向

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ところで問題はこの後である。競争に出おくれたことに気がついたとき、日本の為政者や経営者のなかに、一種のあせりと、そこから生じたしっかりした戦略をもたない安易なリストラや、現象面だけにとらわれた、これまた安易な追随が承られるに至った。いわく、アメリカ式グローバル・スタンダードによる株主重視の企業統治への機械的追随、いわく、能力主義、実力主義の強調による長期雇用や年功序列制などの日本的雇用慣行の一面的否定、などにそれは端的にあらわれている。しかもそれが、グローバル競争に立ち向かうための明確な戦略をもつことなしに、安易な人くらしと結びついた形で進められたり、中国など低賃金国への生産移転をやりさえすれば競争力が回復するだろうという目先の利益にとらわれた発想を伴ったりしたため、よけい困難と混乱を増幅させてしまったと象ることができる。

このような状況を生んだ大きな要因として無視できないのは、この時期の日本企業のリーダーである経営者たちの多くが、1960年代から90年代初頭までの成功体験しかもたず、急速に変化した環境にいかに立ち向かうかについて、創造的な発想をもちえなかったことで確かにこの世代の経営者が、戦後の財界パージ(占領軍によって財閥の解体とその首脳陣の経営者が追放され、これを契機に経営者の世代交代が行われた。戦後日本の経済と経営の再建と成長を軌道に乗せたサラリーマン経営者の後を継ぎ、貿易摩擦や経済の国際化で苦労しながら一定の成果をあげたことは事実である。しかし、その成功体験がある程度持続したことにより、それらを支えてきた枠組承のなかでしか物事を判断しない傾向が定着してしまった。そのために、平成不況の長期化と並行して進んだグローバル化と、情報革命がもたらした経済と社会の劇的変化に対する対応能力、とくに戦略構築能力を発揮することができなかった。

このように見てくると、「失われた十年」は、確かに政府の財政・金融政策の混迷によるところが大きいが、それだけでなく、急激な環境変化に対する適応能力を発揮しえなかった日本の社会システムと経営者の資質によるところも大きかったということであろう。

今ようやくにして日本経済と日本企業の業績の回復が承られるとき、何よりも必要なことは、中国などアジア特需や輸出環境の改善によって一息つくだけでなく、「失われた十年」の苦い経験を総括し、そのなかから今後も進んでいくグローバリゼーションに有効に対応できる戦略的発想と教訓を引き出すことである。

そのためには、まず何よりも企業の創造的競争力を高め、今までの成功体験にとらわれない、真の競争力を生承出す創造的分野に経営資源を集中する努力を怠らないことである。かつての日本企業には、ライバル企業が成功すると同じ分野で同質的競争に走り、シェア競争にとらわれて利益の薄い業界にしてしまって、海外企業に足許をすくわれるというケースがままあった。半導体業界などはその好例である。これからは、他のどの企業も真似ができない創造的分野で成功を収めるための、ダイナミックな戦略構築能力が不可欠である。


このような戦略構築能力は、たとえばGE(ゼネラル。エレクトリック)のジャック・ウェルチ型の天才的経営者でなければできないのかというと、決してそうではない。天才的経営者個人の出現よりも、とくに日本の場合、ポトムァップでも集団的英知を結集する企業風土を創造していくなかで、このような戦略構築能力を創り出すことは十分可能である。


また「失われた十年」の経験のなかでしばしば問題となるコーポレート・ガバナンスにつうたいても、株主優位を単純に調い上げるだけでなく、顧客満足や従業員満足ときちんと結びついた株主満足と調和させつつ実現することは、この創造的競争力と結びついた明確な企業理念の下で十分可能であろう。近年とくに強調される従業員の処遇での実力主義、能力主義についても、目先の実績や業績だけでなく、チームワークや組織目的への自律的貢献の潜在能力をも含めた能力評価こそ、今後の大きな課題であろう。 


「失われた十年」の経験から過去の成功体験を捨てることは必要だが、新しいグローバリゼーションの時代にふさわしい日本的経営の普遍的要素の創造的再構築が、今こそ求められている。 


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クリエイティブ層と個性


クリエイティブ層は個性や自己表現を強く好む。組織や制度の命令に従うことを好まず、因習的な集団志向の規範を受け入れない。「風変わりな」芸術家からマッド・サイエンテイストまで、クリエイテイブ・クラスは常にそうであった。


しかし、いまでは個人志向ははるかに広く浸透しており、その意味で組織規範への不服従が増えているのは、新たな主流派といえる価値の表れかもしれない。クリエイティブ層は、自分たちのクリエイティビティを反映するアイデンテイテイをつくり上げる努力をしており、アイデンテイテイを複数併せ持つこともありうる。



多様性と開放性

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終末期ケア・ターミナルケア・看取りケアの研修・資格

開放性


多様性は政治的に利用され流行語となつた。多様性を理想やスローガンとする人もいれば、行き過ぎた差別是正措置などのリベラルな慣行を生んだだけのお題目であると考える人もいる。私が調査したクリエイティブ層の人は、多様性という言葉を多用するが、政治的な意味で使っているわけではない。どのようなものであれ、ただただ多様性を重視するのである。あまりにも頻繁に、あまりにも当然のこととして語られるため、私は多様性をクリエイティブ層の価値観の基本標識としたほどである。私が行ったグループや個別の聞き取り調査で明らかになったのは、クリエイティブ層はだれもがなじめ、成功できると感じられる組織や環境を強く好んでいるということだ。

多様性はまず自分自身の利益になる。多様性は実力主義の規範が働いているシグナルとなっている場合もある。

有能な人は人種、民族、性別、性的指向、外見で区別されることを拒む。また、クリエイティブ層の人々は、求職の面接の際に自分自身はゲイではなくても、会社が同性のパートナーに対しても手当を払うかどうかをよく尋ねる。その事実一つをとっても、多様性が好まれていることがうかがえる。彼らが求めているのは多様性に開かれた環境なのである。

民族や性的指向を問わず、非常にクリエイティブな人には、同級生の大半とはどこか異なっていると疎外感を感じながら成長した人が多い。変わった癖があったり、極端な格好をすることもある。またクリエイティブ層は流動性が高く全国各地を移動する傾向があるため、米国生まれであつても「地元の人間」とは限らない。新しい企業やコミュニティを評価する際、多様性を受け入れる、特にゲイを受け入れるならば、それを「標準的でない人を歓迎している」というサインとして受け止めるのである。

また、多様性を受け入れることで、組織の行動や方針にも変化が表れる。たとえばシリコンバレーやオースチンなどのクリエイティブ層の拠点では、伝統的に行われていた会社のクリスマスパーティは、より宗教色の薄い、皆が参加できるお祝い行事に変わりつつある。現在多くの企業で行われている大イベントと言えばハロウィーンパーティである。これならほぼ全員が仮装して祭日を祝うことができるからである。

クリエイティブ層は開放性や多様性を好むが、それは高等教育を受けたクリエイティブなエリートに限られた多様性である、という側面もある。クリエイティブ層の台頭によって女性や少数派が進出する新たな道が開かれたとはいえ、長年の人種間や性別間の対立に確実に終止符が打たれたわけではない。特にハイテク産業においては、こうした対立は続いているように思われる。ハイテク技術のクリエイティビティの世界には、アフリカ系米国人はあまり多くない。私が調査した何人かは、典型的なハイテク企業は「黒人のいない国連のようだった」と述べている。

これは残念なことであるが、驚くには当たらない。黒人が少ない職業にはいくつか理由が考えられるが、いわゆるデジタル・デバイド(情報化が生む経済格差)――黒人家庭は平均より貧しいために、その子どもたちはコンピュータに接する機会が少ない可能性がある――によって事態は悪化しているかもしれない。私自身の調査でも、ある地域のハイテク企業の集中度と人口の非白人比率との間には、統計的にマイナスの相関が見られた。ハイテク産業と外国籍住民やゲイなどその他多様性との間にプラスの関係があることを考え合わせると、これは気がかりな結果である。

クリエイティブ層を惹きつけている多様性について、興味深い指摘がある。従業員にインド人、中国人、アラブ人その他の顔ぶれが揃っているごく小さなソフトウエア企業について話をしていた時、あるインド人の技術者が言った。「それを多様性とは言わない。全員がソフトウエア技術者なんだから」たとえ完全とは言えないまでも、他の研究でも明らかなように、顕著な価値観の変化はたしかに進行しているのである。



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