失われた30年の日本社会と多死時代―多様化する終末期・ターミナル期

クリエイティブ層の社会学各論 | 記事URL


クリエイティブ層の台頭



クリエイティブ層の台頭によって、価値観や規範、意識は大きく変わってきた。こうした変化はいまも進行中であり、完全に展開し終えたわけではないが、研究者によって多くの重要な傾向が認められている。

すべてが過去と断絶しているわけではなく、新旧の価値観の融合を示すものもあった。またそれらは、高等教育を受けたクリエイティブな人と長く結びついてきた価値観でもある。

価値多様化の広がり~死へのまなざし・終末期・ターミナル期~


その風潮は、死に対する価値観、終末期やターミナル期、エンドオブライフといった人生の後半期についての捉え方の多様化も大きく進んでいます。特に日本では超高生社会になっており、多死化が進むただ中にある。そのような社会背景によって、死に対する価値観の重要性が増す一方である。

多様な死への視線はそれぞれ尊重される必要があるため、そのような死や終末期に対する多様性のあり方を共有し、実体として実現させる共創に至るプロセスを専門的に担う専門職が求められている。

失われた十年と日本の未来


日本経済と日本の企業経営が1980年代の輸出景気とバブル好況に踊り、右肩上がりの成長と繁栄を認歌したのは、つい14、5年前のことであった。当時、日本経済が世界経済を牽引する不沈空母になるとか、日本経済に日没することなしとする説が、日本的経営の成功がもてはやされる風潮のなかでしきりと強調されたものである。

この風潮は国内だけにとどまらず、海外でもそうであった。たとえばエズラ・ボーゲル教授の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)が刊行されたこととか、1989年ごろの米国CBS放送による20歳代の米国青年層を対象とする世論調査で、21世紀には日本が経済力で米国を追い抜くとする回答が多数を占めたこと、などである。

ただ、1989年に『ロンドン・エコノミスト』誌の知日派のジャーナリスト、ビル・エモットは、その著『日はまた沈む』で、日本経済の先行きと日本社会に行き詰まりの可能性があることを指摘して警告を発した。日本の一部の識者にはこの予見を理解する向きもあったが、多数意見とはならなかった。

しかしそれから数年を経ずして、1990年代前半、バブル経済の破綻が表面化し、平成不況が起こった。不況は泥沼のように長引き「いわゆる「失われた十年」が始まった。企業ではリストラの嵐が吹き荒れ、日本経済の地盤沈下と機能不全が表面化し、あれほど賞賛された日本的経営も、経済のグローバル化と情報革命により激変する経済社会環境への不適応が目立つようになった。とくに、高度成長と繁栄を四○年近くにわたって支えてきた銀行金融システムの目を覆わんばかりの破綻と衰退は、国民に多くの衝撃を与えた。

こうして、いつ果てるとも知れぬ不況とリストラ、デフレの波にもまれつづけた日本経済にも、ようやくほのかな明るい兆しが見えはじめているように思われる。とくに、2001年末の中国のWTO(世界貿易機関。先進国中心のGATTが再編されたもので、世界的な自由貿易を促進する世界機関)加盟を背景とする目覚ましい経済発展に影響されて、今や中国はアメリカを抜いて日本の第一の貿易相手国となった。このままの勢いが続けば、今後もずっとアメリカを超えるともいわれている。

この、中国特需といってもよいすさまじい外資導入と経済の急成長に刺激されて、長年のデフレ経済不況に悩まされつづけた日本の鉄鋼業や造船業には、ついこの間までは予想もされていなかった輸出需要の急拡大が承られる。鉄鋼などは、総生産量では中国が日本をはるかに追い抜き年産3億トンに迫るといわれているが、日本でしかできない高付加価値の特殊鋼材や鋼板の需要は根強い。構造不況業種だった造船の場合には、大型コンテナ船を中心に向こう五年分の受注を抱えて、にわかに活気づいたといわれている。

もちろん、現在進もうとしている景気回復は、中国特需だけに負うのではない。1997年の経済危機から立ち直りつつある東南アジアをはじめアメリカや欧州への輸出や、現地生産の拡大などの要因の相乗効果と、あまりにも長かった平成不況を通じ、日本の産業や企業のリストラや構造改革がそれなりに効果をあげ、危ない橋を渡ってきた感のある金融システムの再建にも、遅ればせながら何とか目途がつこうとしはじめたことも関連している。

ただ、ここで考えるべきことは、中国特需や景気回復に浮かれることではなく、平成不況がなぜこんなに長引いたのか、世にいう「失われた十年」とは何であったのかを、徹底的に検証することである。バブル好況期とその後の「失われた十年」を経験した多くの人々は、その変化の速さと激しさに目を奪われて、日本経済と企業がこれまでの歴史において体験したことのなかった変化の根底にあるものを把握しているとはいえない。

なぜそうなのか。それは、「失われた十年」とは、1980年代から90年代初頭にかけての日本経済の一時的成功が世界でもてはやされたのとは裏腹に、政治と経済のグローバル化が急速に進んだことに対する適応能力の欠如を日本の経済システムと企業が露呈し、その方向性を見失った10年だからである。

ここにいうグローバリゼーションとは、輸出や海外生産が増えるといった単なる国際化の次元を超えて、それ以前には考えられなかったような、ヒト、モノ、カネ、そして情報の、国境を越えたきわめて迅速な移動と交流がドラスティックに進行することである。その結果、それまで国境によって守られ、また政策的に保護されていた産業やシステムが、そのままでは立ちゆかなくなったのである。

もちろん、バブル好況期の金余りに悪乗りし、過剰融資にのめりこんで不良債権を累積させてしまった銀行金融システムにも問題はある。しかしそれだけでなく、アメリカやイギリスが、1980年代にビッグバンと呼ばれる金融システム改革を行い、金融グローバル化で先手を打ったのに、日本では官民あげてこの大きな流れに乗りおくれ、あわてて差》れを実施したときには、かえって金融システムの疲弊に追い打ちをかけることになってしまったことなどは、まさにグローバリゼーションへの不適応の典型である。このほかにも、内需主導で外資や外国製品と直接競争する機会がなかった建設業、農業、流通業、医薬品業界などにもグローバリゼーションへの不適応は目立っている。

ところでこのグローバリゼーションは、すでに指摘したように、単に冷戦の終結により国境の壁がなくなり、ヒト、モノ、カネ、情報がより自由に移動できるようになっただけではない。これらのことをそれまで以上に加速した情報革命の急速な広がりと、分かちがたく結びついていたのである。それにもかかわらず日本の為政者や経営者は、この情報革命によるグローバリゼーションが、世界の金融システムやグローバルな競争のルールにいかに大きなインパクトを与えるかについての認識が欠けていたといえる。

とくに金融システムについては、長年の護送船団方式による過保護な政策がバブル崩壊で完全に破綻したにもかかわらず、グローバル競争どころか、国内の再編・整理にさえ時間がかかり、気がついて承れば世界の大勢に乗りおくれてしまっていたのである。

また、グローバル競争の新しいルールとは、グローバルな生産のリンケージやコスト競争、グローバルな調達やロジスティックスなどの出現によって、競争のルールやあり方が新しい次元に変化したことをいうが、これにより日本の企業は、いやでも戦略のあり方に大きな脱皮を迫られることになった。しかしこの新しい事態についても、グローバル競争にもろにさらされた自動車を除き、ほとんどの産業や企業は後追いになってしまったといえよう。



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